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【バッハはどんな人だったのか?】バッハの人生と代表曲を解説

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【バッハはどんな人だったのか?】バッハの人生と代表曲を解説

「音楽の父」とも呼ばれるバッハは、クラシック音楽の基礎を作り数多くの宗教曲や器楽曲を生み出しました。

今でもバッハの作品は世界中で演奏され、親しまれていますね。

しかし、音楽の授業でも取り上げられるものの、どのような生涯だったのかはあまり知られていません。

今回は、そんなバッハがどんな人生を送ったのかの解説と、代表作をご紹介します。

バッハの生涯

幼少期

バッハは1685年3月21日、ドイツのアイゼナハという町の音楽一家に生まれました。本名はヨハン・ゼバスティアン・バッハ。8人兄弟の末っ子です。父親は宮廷音楽家でした。父親や親戚の音楽家からオルガンを習うなど、音楽の英才教育を受けて育ちます。

7歳のときにラテン語学校に入学。合唱団でソプラノとして歌っていました。9歳で母親を亡くし、再婚した父親も翌年に亡くなってしまいます。

バッハは、小さな町でオルガニストを務めていた長兄のヨハン・クリストフの家に身を寄せました。現代のピアノにあたるクラヴィーアの手ほどきを、クリストフから初めて受けたといわれています。

バッハの上達はめざましく、音楽の技術を身につけていきました。

兄が所有する楽譜を夜中にこっそり持ち出し、月明かりを頼りに半年かけて写譜したというのは有名な話です。幼い頃から情熱をもって音楽に向き合っていたことがわかるエピソードですね。

しかしこのとき目に負担をかけたことが、晩年に失明してしまう原因となりました。

リューネブルクへ移りオルガニストの道に進む

兄の家族が増えて家が狭くなってきたため、バッハは15歳のときにドイツ北部のリューネブルクに移り住みました。ここの聖ミカエル教会の「朝課合唱隊」に入れば、付属学校の学費が免除されるためです。

バッハは美声の持ち主だったためこの合唱団でソプラノとして活躍します。しかしすぐに変声期をむかえて美しいソプラノが出なくなり、その後は低音のパートを担当したり、ヴァイオリンやオルガンなどを演奏していました。

学校に通いながら、オルガンの巨匠として名声のあったラインケンに会ったり、フランス音楽にも親しむなど、音楽家としての道を確実に踏み出していました。

学校卒業後は、ワイマールのヨハン・エルンスト公の宮廷楽団に就職して3ヶ月ほど働いたあと、アルンシュタットの教会でオルガニストとして本格的に音楽活動を始めます。

ミュールハウゼンで教会音楽家として活躍

22歳のときに、ミュールハウゼンの聖ブラージウス教会のオルガニストになりました。

固定給もそれまでよりも上がり、結婚式や葬儀などの臨時収入も増えて年収はかなり増えたそうです。同じ年に、1人目の妻マリーア・バーバラと結婚します。

バッハはオルガン演奏だけでなく、教会音楽の作曲にも熱心に取り組みました。

バッハの初期のカンタータ(声楽曲)がこのミュールハウゼンで作曲されました。

ワイマールで宮廷オルガニストになる

バッハは23歳のときにワイマールに戻り、領主ヴィルヘルム・エルンスト公爵の宮廷オルガニストになりました。ルター正統派の領主は教会音楽を重視しました。バッハはオルガンに打ち込み、バッハのオルガン曲の大半がこのワイマール時代に作曲されています。

楽師長に昇進してからは4週間ごとにカンタータ作曲の義務があったため、美しいカンタータも多数生まれました。このワイマール時代にバッハはイタリアの協奏曲に強い関心を持ち、特にヴィヴァルディの協奏曲などから様式を学び、表現力を磨いていきます。

当時、領主本家とその甥の分家はきびしく対立していました。バッハは甥の音楽教育も引き受けるなど親しく交流していたので、領主の反感を買ってしまいます。

宮廷楽長が亡くなったときにバッハは後任の座をのぞみましたが、受け入れられませんでした。怒ったバッハは辞表を提出してますます領主との関係は悪化し、バッハは4週間のあいだ刑務所に収容されてしまいます。

バッハが刑務所にいたなんて、おどろきのエピソードですね。

バッハの辞職の意志が堅かったので、釈放後にようやく領主に許され、ケーテンへと移りました。

ケーテンで宮廷学長になる

32歳のバッハは、ケーテンの宮廷楽長になりました。バッハは領主に大切にされ、給料もよく、恵まれた環境で音楽に没頭します。

協奏曲やクラヴィーア曲、カンタータなど、多くの曲を作り上げました。

35歳のときに妻マリーア・バーバラが急死。バッハは4人の子どもを抱えていました。ハンブルクを訪ねて聖ヤコブ教会のオルガニストへの転職を希望し、オルガン独奏会を開きました。

バッハの演奏は人々に感動を与え、その評判によって試験日に先立ち内定をもらえたのですが、多額の寄付をすることが条件だったため転職は実現しませんでした。

36歳のとき、16歳年下の宮廷のソプラノ歌手、アンナ・マグダレーナと再婚します。マグダレーナは歌手の仕事も続けながら大家族の家事もこなし、バッハを献身的に支えつづけました。のちにバッハは感謝の気持ちをこめて、マグダレーナに曲を作っています。

ケーテンで充実した日々を過ごしていましたが、バッハの気持ちはケーテンからだんだんと離れていきました。

領主レオポルト公の結婚相手が音楽にまったく興味を示さず、レオポルト公も今までほど音楽に関心を持たなくなってしまったからです。

そして大都市ライプツィヒで、今よりも経済的に好条件の仕事を見つけます。

ライプツィヒでカントルとして多忙の日々を送る

バッハは38歳のときにケーテンの宮廷楽長を辞めて、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントルに就任しました。

カントルの仕事は教会付属学校の教師と、市の音楽監督です。生徒たちに声楽、器楽、生活指導をしながら、音楽監督としては市内の主要教会の音楽をとりしきり、多忙な仕事をこなしていました。

バッハはカントルに就任後5年間、カンタータを毎週作曲したといわれています。

このような頻度で作曲していたので、以前に作曲した声楽曲や器楽曲を作りかえたりしたものも多くありました。

それでも、バッハの音楽を立て続けに聴いても飽きることはなく、多様性に満ちた曲を次々と生み出しているのがバッハのすごいところです。

この時期には大規模な声楽曲も作られ、「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」が生まれました。

51歳のときには宮廷作曲家の称号を受けています。

現在残っている約200曲のカンタータのうち、8割がライプツィヒ時代に作られています。

ところが上司など周りの人といざこざがあり、だんだんと気持ちは教会音楽から離れ、いわゆる世俗曲へ力をいれるようになりました。「コーヒーカンタータ」「農民カンタータ」が作られています。

バッハは子だくさんで有名で、生涯に20人の子どもがいました。しかし成長できたのはそのうちの10人だけでした。成人後に父と同じ音楽家になる人が多かったそうです。

バッハは晩年、過去の作品を見直してまとめる作業に専念しました。

長年酷使しつづけた目をわるくし、手術を2度受けましたが失敗。とうとう失明してしまいます。そして65歳のとき、脳卒中で倒れて亡くなりました。

バッハの作品3選

バロック音楽の集大成を成し遂げたバッハ。手がけた作品は1,000曲以上です。

カノンやフーガといった高度な作曲技法を駆使し、複数の旋律を巧みにからみ合わせながらも自然な楽曲に仕上げている点で、高く評価されています。

モーツァルトやベートーヴェンなど、多くの作曲家がバッハの音楽を研究し、自分の音楽に取り入れました。

音楽教育の場でも、バッハの作品は音楽理論や作曲技法の模範とされています。

のちのクラシック音楽の発展に大きな影響を与え、今もなおバッハの音楽は世界中で親しまれています。

それではバッハの代表的な曲をご紹介します。

トッカータとフーガ ニ短調

バッハの数多いオルガン曲の中でも知名度が高い曲です。

対位法という作曲技法が巧みに使われています。

引用:ロレンツォ・ギエルミ トッカータとフーガニ短調|izumi

ブランデンブルク協奏曲

ケーテンの宮廷楽長をつとめていたときに作曲されました。

宮廷管弦楽団のために作られ、独奏者には相当な腕前が求められています。

引用:バッハ ブランデンブルク協奏曲第5番 第一楽章、アレグロ|0Bach0

主よ人の望みの喜びよ

ライプツィヒでカントルに就任した年に作曲されました。

結婚式や卒業式、クリスマスの祝祭、映画やドラマなど幅広い場面で親しまれています。

引用:J.S.バッハ : 主よ人の望みの喜びよ【パイプオルガン】|Organist Tomita Kazuki

まとめ

バッハが刑務所にいたことや、子だくさんだったこと、晩年に失明してしまったことなど、予想外なエピソードがありました。

転職を繰り返しながら作曲活動に邁進したバッハが、のちの音楽界に与えた影響はとてつもなく大きいです。

バッハの作品を紐といて、どんな作曲技法が使われているのかを知るとおもしろそうですね。

聴くと自然と心が落ち着く名曲が多いので、興味がある方はこの機会に他の曲も聴いてみてください。

【この記事を書いた人】

オーケストラ好きライター さち

「愛知県在住のWebライター。学生時代は吹奏楽部に所属し、7年間ホルンを演奏していました。現在、双子を育児中です。 心が洗われて優雅な気持ちになる、オーケストラの音楽の魅力を伝えたいです。」

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