音楽史上、極めて重要な人物であるベートーヴェン。ハイドン、モーツァルトと並び、古典派を代表する作曲家です。
耳の不調に苦しみながらも創作意欲を持ち続け、革新的な作品を残して多くの音楽家に影響を与えました。
今でも世界中で愛されている作品を生み出しましたが、彼がどんな人生を送ったのかご存知ですか?
今回は、ベートーヴェンの苦労の絶えなかった人生をふりかえり、彼の代表曲もご紹介します。
ベートーヴェンの生涯
ドイツのボンで過ごす日々
ベートーヴェンは1770年、ドイツ中西部のボンという町に生まれました。
父は宮廷のテノール歌手のヨハン、母は料理人の娘であるマリア・マグダレーナです。
父ヨハンはモーツァルト親子を理想とし、息子をモーツァルトのような神童として売り出したいと考えていました。
ベートーヴェンは3歳の頃からピアノの手ほどきを受けますが、酒癖がわるく横暴だった父親の指導はスパルタでつらいものでした。
ベートーヴェンに暴力をふるったり、曲を弾けるようになるまで食事を与えず部屋に閉じ込めたりするなど、父親の虐待ともいえるほどのスパルタ教育を受けたことから、ベートーヴェンは一時期音楽に対して嫌悪感を抱いてしまいます。もしこのときベートーヴェンが音楽をやめてしまっていたら、音楽の歴史が大きく変わっていましたね。
つらい環境の中でも才能を開花していき、7歳で演奏会を開き、11歳で作品を初出版しています。
13歳のときにはオルガン奏者として宮廷楽団に入り、働かなくなった父親の代わりに家計を支えながら音楽の勉強を続けました。
16歳で母親を亡くしてから、ベートーヴェンは2人の弟の世話もしながら懸命に働きます。
22歳のとき、ドイツのボンを訪れた大作曲家ハイドンに弟子入りを志願して認められ、オーストリアのウィーンに活動の場所を移しました。
ウィーンで耳の不調と闘う日々
ウィーンではハイドンから作曲技法を教わりながら、ピアニストとして活動しました。
ピアノ協奏曲を完成させて演奏会で披露したり、交響曲第1番を作曲して自らの指揮で初演するなど、ピアニストとしても作曲家としても順調な日々を過ごしていました。
ところがだんだん耳が聞こえにくくなってきてしまいます。20代後半から耳の聞こえが悪くなり、症状は悪化する一方。音楽家として致命的な耳の不調にベートーヴェンは自殺を考えるほど悩み苦しみ、2人の弟にあてて苦しい思いを綴った遺書も書きました。
しかしこのときに自分の気持ちを書いたことで耳が聞こえなくなる恐怖に打ち勝ち、自殺を思いとどまってベートーヴェンは生きる強さを取り戻しました。
この遺書はハイリゲンシュタットという村で書かれたため、「ハイリゲンシュタットの遺書」の名前で現在も残されています。
恐怖を乗り越えたベートーヴェンはこのあと次々に傑作を生み出します。
1804年に不朽の傑作交響曲第3番「英雄」を発表し、その後も創作意欲に溢れ、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲やピアノソナタなど多彩な作品を世に生み出しました。
次々に新しい曲を作りながらも耳の病気は悪化していき、40代半ばでほぼ何も聞こえない状態になって筆談をするようになります。
耳の不調以外にも持病の腹痛や下痢にも悩まされて、悲しみや絶望を感じながらも作曲への意欲は持ち続けていました。1824年に交響曲第9番「合唱つき」を作曲し、音楽史に残る大作を次々に完成させています。
1826年末に肺炎を患いベッドに寝たきりになってしまいますが、その状態でも交響曲を作曲していました。その翌年の1827年3月26日、ベートーヴェンは56歳でその生涯を閉じます。
葬儀には2万人も参列したといわれていて、ベートーヴェンが当時いかに人気だったかが分かりますね。
ベートーヴェンの素顔と功績
ワインとコーヒーが好き
ベートーヴェンのお気に入りの飲み物はワインとコーヒーでした。晩年にはワインを飲みながら交響曲第9番を作曲したといわれています。
当時ワインを飲むときには甘味料として鉛を入れることが流行っていました。鉛は体に悪いので、ベートーヴェンの体の不調は鉛を入れたワインの飲み過ぎが原因ではないかといわれています。
またベートーヴェンはコーヒー好きでもあり、毎朝コーヒーを入れるときには1杯につき60粒のコーヒー豆を正確に数えて自分でひいて楽しんでいたそうです。
他人任せにはせず、自分できっちり60粒数えるというこだわりぶりでした。神経質だったといわれるベートーヴェンの性格がよく表れていますね。
フリーランスの先駆けとなる
ベートーヴェンが活躍する前の作曲家は、宮廷や教会に雇用されて活動する人が大半でした。
宮廷に雇われている場合はそこに出入りする貴族のために曲を作り、貴族を満足させる曲作りが要求されます。
しかしベートーヴェンはどこにも属さず、フリーで活動した最初の作曲家になりました。
ベートーヴェンが活躍した時代には、一部の階級の中だけで行われていた演奏会が一般市民にも普及していき、有料の演奏会や楽譜の出版などのビジネスが成立するようになってきたため、独立して活動できるようになったのです。
曲の創作では注文を受けるだけでなく、自分の意志でできるようになります。
「作曲家は宮廷か教会に就職して生計を立てる」というそれまでの常識をくつがえし、のちの作曲家の方向性を決定づける大きな功績となりました。
ベートーヴェンの功績として付け加えたいことは、彼がメトロノームの速度指示を楽譜に記した最初の作曲家であるということです。
それまでの楽譜には「ゆっくり」「普通くらい」「快活に」のようなアバウトな速度指示しかありませんでした。
しかしベートーヴェンは自分の理想の速度を演奏者に正確に伝えようとしました。
今では当たり前のように楽譜にある速度指示ですが、その始まりがベートーヴェンだったとは、なんだかベートーヴェンが身近な存在に感じられますね。
交響曲のジャンルを確立
ベートーヴェンが作曲した交響曲は1番から9番まですべてが完成度が高く、200年近くたった今でも高く評価され、世界各地で演奏されています。
特に評価が高いのは、彼が最後に書いた交響曲第9番「合唱つき」です。ベートーヴェンはそれまで交響曲に導入されてこなかった「歌」を取り入れ、交響曲の規模を大きく発展させました。
ベートーヴェンはモーツァルトやハイドンの影響を受けながらも、従来の形式を超えてより大胆で個性的な表現を追究しました。
自然や人間の感情、思想などを音楽で表現することにも注力し、これは次のロマン派音楽への橋渡しとなって、のちの作曲家に大きな影響を与えています。
ロマン派を代表する作曲家ブラームスは、ベートーヴェンの完成度の高い交響曲を意識しすぎて、自身で交響曲第1番を完成させるのに21年もかかったといわれています。
ベートーヴェンは交響曲第5番「運命」で、それまでオーケストラに取り入れられていなかったピッコロ、トロンボーン、コントラファゴットを使用するなど、新しい楽器も積極的に使用しました。
今ではオーケストラで必ずといっていいほど使用される楽器ですが、ベートーヴェンが使用していなかったら今も使われていなかったかもしれません。
ベートーヴェンの代表曲5選
交響曲第5番「運命」
クラシック音楽の代名詞といえる1曲。「ジャジャジャジャーン」という出だしでおなじみの作品です。「このようにして運命は扉をたたく」とベートーヴェンは言っていたそうです。
交響曲第3番「英雄」
ベートーヴェンがナポレオンに献呈するために作曲した作品です。しかし完成後にナポレオンが皇帝の座についたことを知り、民衆の英雄であったナポレオンが特権階級側の人になったのが許せなかったのか、失望と激怒で献呈を取り下げました。
交響曲についての古典派の表現を格段に広げ概念を変えた、ベートーヴェンの決定的な代表作です。
ピアノソナタ第14番「月光」
ベートーヴェンのピアノソナタの中の人気作。
作曲当時、ベートーヴェンが思いを寄せていた伯爵令嬢ジュリエッタに贈られた作品です。
映画やテレビドラマで使用されることも多く、穏やかでロマンティックな音楽として世界中で愛されています。
ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
40歳の頃に作られた作品で、ベートーヴェンの最後のピアノ協奏曲です。それまでの協奏曲の形式とは違い、いきなり華麗なピアノの独奏で始まります。
「皇帝」という名前はベートーヴェンが付けたものではないのですが、曲想にぴったりです。
エリーゼのために
ピアノが弾ける方は、この曲を弾いたことがあるかもしれませんね。
エリーゼというのはベートーヴェンの知人の妹、エリザベート・レッケルのことだといわれています。
全体的に暗い印象で感傷的な和音ですが、美しさも感じる魅力ある作品です。
まとめ
父親のスパルタ教育や耳の不調など苦労の多い人生でしたが、そこで音楽をやめることなく、耳が聞こえなくても作曲活動に意欲を示す情熱には心を打たれますね。
それまでの常識をくつがえすような作品を生み出して人々を驚かせましたが、フリーの音楽家になり、働き方まで後世に影響を与えたことも印象深いです。
私もコーヒーが好きで毎日飲むので、ベートーヴェンが毎朝こだわって飲んでいたコーヒーはどんな味だったのだろうと想像してしまいました。
交響曲や、協奏曲、ピアノソナタ、オペラなどさまざまなジャンルの作品があるので、興味がある方はぜひいろいろな曲を聴いてみてください。
【この記事を書いた人】
オーケストラ好きライター さち
「愛知県在住のWebライター。学生時代は吹奏楽部に所属し、7年間ホルンを演奏していました。現在、双子を育児中です。 心が洗われて優雅な気持ちになる、オーケストラの音楽の魅力を伝えたいです。」
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