作曲家でありピアノ演奏家のショパンが、どのような人生を送ったのかご存知ですか?
ショパンはピアノ曲をメインにいくつもの傑作を生み出しました。ピアノが弾ける方は、ショパンの曲に親しみがあるかもしれません。
おしゃれで紳士的なショパンは貴婦人からとても人気でした。祖国ポーランドを思いつづけ、39歳の若さで帰らぬ人となります。
今回は、ショパンがどんな生涯を送ったのかを解説していきます。
ショパンの生涯
ショパンはロマン派の代表的な作曲家。ピアノ演奏と作曲で人生を駆け抜けました。
ポーランドで生まれましたが成人してからはフランスを中心に暮らしていたこともあって、通常「フレデリック・フランソワ・ショパン」というフランス名で呼ばれ、祖国ポーランドでは「フリデリク・フランツィシェク・ショペン」と呼ばれています。
ワルシャワでの幼少期
ショパンは1810年3月1日、ポーランドの首都ワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラという村で生まれました。父はフランス人、母はポーランド人です。
父ニコラは10代でポーランドに移り住み、軍に入隊して退役したあと、フランス語が話せることを生かした家庭教師になります。ポーランド貴族の家庭の子どもにフランス語を教えて過ごし、同じくその家庭で働いていたユスティナ・クシジャノフスカと結婚。長女ルドヴィカに続き、フレデリック・ショパンが生まれました。
ショパンの父はフルートとヴァイオリン、母は歌とピアノが得意でした。ショパンは4歳でピアノを習い始め、6歳のときにヴォイチェフ・ジヴニーからピアノの指導を本格的に受けるようになりました。
ショパンに演奏と即興の才能があることを見抜いたジヴニーは、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなど先人の音楽をショパンに教え込みました。
ジヴニーの手からショパンが離れたあともジヴニーとショパン家の交友は続いていて、ショパンはいつまでも彼を慕い「ジヴニー先生には誰が習ってもうまくなる」と言っていたそうです。
ショパンの即興演奏はワルシャワ中で評判になっていて、7歳のときに最初の作品「ポロネーズ ト短調」を作曲し出版しています。8歳のときにワルシャワの劇場でショパンの最初の公開演奏会が開かれました。その後、10歳のときには世界一の歌姫といわれたイタリア人歌手アンジェリカ・カタラーニがショパンの演奏に感動して記念に金時計を贈るなど、ショパンは「モーツァルトの再来」としてもてはやされました。
14歳の夏休みの国内旅行ではポーランドの田園を訪れ、農民たちの民族音楽に深く興味を持ちました。ワルシャワの貴族社会で暮らしてきたショパンは大きな刺激を受けます。マズルカ、ポロネーズ、クラコヴィアクなどの民族舞踊は、後にショパンによって発展していきました。
幼少期のショパンは音楽だけでなく学業も優秀でした。陽気な性格で、ものまねで周囲を楽しませたりして人気者だったようです。
ワルシャワ音楽院に通う
16歳のときにワルシャワ音楽院に通い始め、19歳で首席で卒業します。
ジヴニーがショパンのピアノ教師だったように、ワルシャワ音楽院の校長エルスネルはショパンの唯一の作曲の師でした。エルスネルはショパンが学ぶことはピアノ曲の作曲だと考え、他の学生には交響曲の作曲を課題にしてもショパンにはピアノ協奏曲を作らせました。
エルスネルはショパンのことを「顕著な才能」「音楽の天才」と評しています。ショパンの独自性を大事にし、才能を伸ばそうとしてくれました。ショパンは生涯、ジヴニーとエルスネルの2人の師のことを尊敬し、感謝を忘れませんでした。
ショパンは18歳のとき初めての海外旅行でベルリンを訪れます。オペラを鑑賞したり演奏会に足を運んだりしてたくさんの刺激を受け、この旅行をきっかけにして海外に活躍の場を広げていくことになります。
ワルシャワ音楽院を首席で卒業したあと、友人3人とウィーンに演奏旅行に出かけました。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの住んだ芸術の都、ウィーンに旅立つ夢の実現です。ウィーンでの演奏会は大評判となり、ショパンは音楽家としての自信をつけていきました。
ショパンの恋愛事情はというと、同じワルシャワ音楽院に通うソプラノ歌手、コンスタンツィア・グラドコフスカに恋をしていました。しかし内気なショパンは思いを打ち明けられず、コンスタンツィアを思いながら「ワルツ変ニ長調 作品70の3」を作曲しました。
このころポーランドではロシアから独立しようとする動きが激しくなり、若者は独立運動に燃えていて、人々は音楽などの芸術に目を向けられないくらい緊迫した状態になりました。才能あふれるショパンの音楽家としての将来のために、周囲の人々はショパンに国外へ出るように強く勧めました。
ポーランドを愛するショパンは、後ろ髪を引かれる思いでパリに旅立つことを決意します。
パリでの生活
21歳の時にパリに到着。パリでは多くの著名人に会うことができ、音楽家のリスト、メンデルスゾーン、ヒラーと親しくなりました。ピアニストで作曲家のカルクブレンナーは、ショパンのパリデビューに尽力します。
22歳のときにパリでデビュー・リサイタルを開きました。亡命してきたポーランド人や、パリの一流音楽家が集まりました。リストやメンデルスゾーンがこのリサイタルを大絶賛しています。
教養のある両親のおかげでマナーもよく、紳士的なショパンの演奏はフランスの貴族社会で評判となりました。
ショパンのレッスンは名家の夫人や令嬢からとても人気があり、ヨーロッパ中から集まった弟子を教え、高額なレッスン料やサロンでの演奏の謝礼、楽譜出版などによって、経済的に豊かな生活を送るようになりました。
稼いだお金のほとんどが、自身のおしゃれに使われていたそうです。服や帽子、時計や靴などはすべて一流のものをそろえ、洗練された服装や態度は貴婦人から注目を浴びていました。
ショパンは、やわらかく、歌うように演奏することを求めていました。そんなショパンは大勢の観客がいるホールよりも、個人の家庭などのサロンでの演奏を好んでいました。
25歳のときに幼なじみのマリアと再会して恋に落ち、2人は婚約します。マリアはピアノ、歌、さらに絵も上手で、上品で知的な16歳でした。しかしショパンの健康状態がわるいなどの噂が流れたり、マリアの母の反対もあって、2人が結ばれることはありませんでした。
ジョルジュ・サンドとの暮らし
ショパンは友人リストの愛人のホームパーティーの場で、ジョルジュ・サンドという女性に出会います。
サンドはショパンよりも7歳年上の作家で、夫と別れて2人の子どもがいました。
サンドはショパンにとても興味を持っていて、積極的にアプローチします。マリアとの婚約破棄に傷ついていたショパンですが、立ち直るとともにサンドと親しくなっていきました。
パリで生活していたショパンは、28歳のときにサンドとその子どもたちとともにスペインのマジョルカ島に行きます。ショパンは結核を患っていたので、空気がきれいで日光に恵まれた地で体調が良くなるようにと願って滞在したのですが、マジョルカ島が雨季に入ってしまい天気は大荒れ。病状は悪化してしまいます。
当時結核は不治の病と恐れられていたため、ショパンたちは家主から追い出されてしまいました。
不幸続きのマジョルカ島での生活でしたが「前奏曲」「バラード」「ポロネーズ」「スケルツォ」など、傑作とも呼ばれる数々の作品がこの島で作られました。
その後、夏はサンドの別荘があるフランスのノアン、冬はパリで過ごすという生活が始まります。ノアンでの生活はショパンの疲れを癒し、作曲に集中させてくれました。
ショパンの健康はサンドによって支えられ、栄養のある食事を用意してもらい、体調はどんどん回復していきます。
サンドは2人の子どもの面倒とショパンの看病、夜には執筆の仕事をして献身的にショパンを支えるたくましい女性でした。
ショパンが34歳のときに父ニコラが亡くなった知らせがあり、ひどくショックを受けて病がさらに悪化してしまいます。そんな中、ショパンとサンドとの間には溝が深まっていきました。
ショパンとサンド、サンドの2人の子どもの間でもめることが多くなっていったのです。サンドとの別れは、サンドの娘ソランジュの結婚相手のことで意見が合わなかったことが原因でした。
いざこざが多くなりショパンは不快な毎日を過ごしながらも、作曲に精を出し、ノアンでも「ワルツ」「幻想曲」「三つのマズルカ」などいくつもの傑作を生み出しました。
晩年の日々
サンドと別れてすっかり気力を失っていたショパン。ショパンが1人で暮らしていたところに熱心に通っていたのが、弟子のジェーン・スターリングでした。
裕福なスターリングは、体調がわるく死期の近いショパンを献身的に支えました。物質的な援助も惜しまず、秘書のようなこともこなしていたそうです。
ショパンはスターリングに誘われて、イギリスへ演奏旅行に出かけます。旅費や宿泊先の手配など、旅行に必要なことはすべてスターリングが整えました。
ロンドンではスターリングがショパンのためにレッスン生を募り、演奏会の準備もしてショパンに尽くします。
この演奏旅行でショパンはヴィクトリア女王の前で演奏したり、サロンで演奏したりと、体調がわるい中でも演奏家としての活動を続けました。
ロンドンは霧や曇りの日が多く、天候によって体調が左右されるショパンには苦労が多かったようです。演奏旅行の日程の厳しさもあり、体調は悪化していきました。
それでも最後の力を振り絞るように、祖国ポーランドの避難民のための慈善演奏会では無報酬で演奏をしました。ショパンのポーランドへの思いがとても強かったことがわかります。これがショパンの生涯最後の演奏でした。
旅行を終えてパリに着くころには、歩くのもままならないくらいにやつれていて、そのまま自宅で療養生活を送ることになります。
レッスンをする体力はありませんでしたが、寝たきりになっても作曲への熱意を持ち続けました。
ショパンの最後の作品は、祖国の民謡、マズルカでした。
長年の友人である歌手のポトツカ伯爵夫人はお見舞いにきてショパンに美しい歌声を聴かせます。
ショパンは39歳の6月に大量の血を吐き、病状はさらに悪化していきました。そして10月17日、ショパンは息を引き取りました。
彼の遺言により、姉のルドヴィカがショパンの心臓を祖国ポーランドに持ち帰り、今も聖十字架教会に収められています。
ショパンの代表曲3選
ノクターン第2番 変ホ長調
ショパンの作品の中でもよく知られている曲です。ピアノ製作会社の社長の妻マリーに捧げられました。夜の情緒を表現しているといわれています。
幻想即興曲
ショパンの死後、友人フォンタナによって出版されました。リズムを習得して両手で弾くのがとてもむずかしい曲です。
革命のエチュード
ロシア軍がワルシャワに攻め入ったと知ったショパンが、怒りや無力感に突き動かされて作曲したといわれています。
まとめ
ショパンは長いあいだ身体の不調と戦いながら、作曲とピアノ演奏に全力を尽くしました。
周りの人の協力や献身的な支えのおかげで、今でも愛される数多くの作品が生まれたんですね。
最後まで祖国ポーランドを思って亡くなったショパンが印象的です。
曲を聴く時は、その作品が作られた背景を知るとより深く音楽を楽しめますね。
ショパンの他の作品もぜひ聴いてみてください。
【この記事を書いた人】
オーケストラ好きライター さち
「愛知県在住のWebライター。学生時代は吹奏楽部に所属し、7年間ホルンを演奏していました。現在、双子を育児中です。 心が洗われて優雅な気持ちになる、オーケストラの音楽の魅力を伝えたいです。」
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